Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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no.2

*事例[2]の言表分析:属性;女性・50代・ケアマネジャー
1.
どんなことでも最初の人は勇気が要るし、危険も伴う。病気がなくなるのはいいことだし、こういった過渡期を越えれば、犠牲もなく、病気もなくなるといった世界がくるのなら、それもあり得る。
2.
かなり極論だと思う。自分の子どもは、例えば男児なら妻が夫の子供時代を理解する手がかりになり、女児なら夫は妻をもっと分かるようになり、お互いをいとおしく思い合えるようになる。そして夫婦として完成していくといった幸福感、家庭という固い絆がきずかれ、それが広がって地域へ国へ世界へとつながるのではないか。カップルが工作するのでは決してないと思う。
3.
…と思う。
(1)言表分析の方法論的諸前提について
これまでの分析の成果として、それぞれの個人=記述主体に関して、ある一定の「自らの価値観」がそれを通じて個人=記述主体にとって記述可能なものとして生成するような、経験と行為の、意思決定=選択行為としての生成過程の分析作業が要請された。以下の論述(事例の分析作業)においては、この意味での再帰的な過程分析が、それぞれの応答記述相互の文脈生成過程の分析として遂行されることになる。
ここでは、この文脈を、複数の応答記述の前後関係それ自体の生成過程という視点から分析する。先に述べた、経験と行為の、意思決定=選択行為としての生成過程の分析作業は、ここでは、一連の記述行為という言説実践として遂行される文脈生成過程の再帰的分析となる。分析においてまず焦点化されるのは、分析対象となる複数の記述が関係付けられる文脈生成過程に、本論述の冒頭で提示したテーマ文はどのような関係を持っているのかという問いである。この問いは、複数の記述がある一定の様態で関係付けられる文脈生成過程において、冒頭で提示したテーマ文が、自らへの応答を要請する力として介入することを想定している。
(2)世界イメージ――あるいはマトリクス的な文脈生成過程への問い
本事例におけるテーマ文1に対する応答記述においては、技術的改変(介入)という媒介となるレベルに対する限定的な眼差しが欠如している。この個人=記述主体にとっては、「犠牲もなく、病気もなくなるといった世界」という未規定な結果がどのような媒介を通じてもたらされるのかという問題は存在していない。それほどまでに、ここには何らかの制約条件に対する眼差しが欠如している。
ここで私たちは、この個人=記述主体の無意識を構成するものとしての、社会的強制力が無意識のレベルで偏在的なものとなった世界のイメージ――あるいは「すべては超微細なレベルで決定されている」という言表が潜在的なレベルで際限無く反復される世界イメージ――の生成過程を想定できる。この世界イメージの生成過程は、個人=記述主体にとってのその都度の意識化レベルから見て、あくまで潜在的なものにとどまる。なお、本論述において「意識化」とは、その都度の記述主体としての個人にとって記述可能な形での対象化が生成しているという事態を含意するものとする。
この世界イメージの生成過程は、個人=記述主体の記述が位置するその都度の文脈の生成過程に関して、最も根底的な文脈生成過程として――言い換えれば、その都度の文脈生成過程に対するマトリクス的な文脈生成過程として――仮定することができる。
ところで、上記の「すべては超微細なレベルで決定されている」という言表が浸透する潜在的なレベルの指示関連領域は、遺伝子レベルに介入する先端技術の領域に限定される必然性はない。言い換えれば、「すべては超微細なレベルで決定されている」という言表が生成してくる過程が、遺伝子レベルに介入する先端技術の領域という媒介あるいは制約条件を固有に指示しているわけではない。とはいえ、今後私たちの生活世界において偏在的なものとなる超微細な生体工学の領域こそが、こういった言表にとって親和的な媒介あるいは制約条件=指示関連領域であるだろう。そういった超微細な生体工学の領域は、<我々自身の無意識>が、それ自身の制約条件=指示関連領域としながら絶え間なく作動する領域である。すなわち、<我々自身の無意識>の作動が、この個人=記述主体の記述自身の生成過程において想定できる。
さて、「どんなことでも」という冒頭の言葉には、「何でも構わない(anything goes)」といった構えすら見て取れる。ここでは、「どんな(any)」リスクが発生したとしても、それらは全て「過渡期」の現象であると見なされる。すなわち、そういった「過渡期を越えれば」、ほとんど全ての問題は解消すると想定されている。
だが、もちろん、ここでは問題が解消すると断言されているわけではない。あくまでも、そういったリスクや問題が全て解消された世界がくるのなら、それもあり得るという仮想世界が述べられているに過ぎない。根底的なレベルには、あらゆる「過渡期」の生成と消滅が恒常的に反復される世界イメージがある。それはむしろ、あらゆる有限な時間性がその都度記述主体にとっての無意識=潜在的なレベルで消去されるような、無時間的な世界イメージである。
(3)個別的な属性の序列化と生存そのものの序列化――無意識の文脈生成過程への問い
ところで、先の記述で述べられていたのは、もし「犠牲もなく、病気もなくなるといった世界がくるのなら」、そのような世界を到来させる技術的介入が「許容される(あり得る)」というこということである。言い換えれば、「自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変える」ことは、少なくてもこの段階では何の懐疑にも晒されてはいない。
だが、もしそうなら、テーマ文1と2に対する応答記述の違いを、どのように考えればよいのか。先の個人のテーマ文2に対する応答記述は、「かなり極論だと思う」で始まっていた。この記述と、テーマ文1に対する「それもあり得る」という記述との整合性が問題となる。すなわち、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えてしまう」という点においては本質的に同一の事態に応答する二つの記述の整合性への問いである。それでは、これらの記述を包括する文脈の生成過程とは、一体どのようなものなのか。
ここで、「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変は、個別的な属性の序列化が生存そのものの序列化と本質を同じくすることから肯定される。すなわち、生存それ自体が健康であることを目指す遺伝子の改変は、生存それ自体の序列化の肯定である」という論点が浮上する。ここで、以下の仮説を提起できる。
一般に、テーマ文に応答する個人にとって、テーマ文1は「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」に対応し、テーマ文2は「個別的な属性の序列化」――同時に生存それ自体の序列化であるがこの個人=記述主体にとってはその認識はない――に対応するものとして受け取られるために、二つの記述が一見不整合なものとして分岐する。言い換えれば、この個人=記述主体が記述しているのは、背を高くしたりするための介入(テーマ文2に対して)は「かなり極端だと思う」が、生存それ自体の健康を願う故の介入(テーマ文1に対して)なら「それもあり得る」ということである。この二つの記述の分岐は、応答する個人=記述主体の主観的な意識化(記述可能なものとしての対象化)過程の分岐に対応している。
既述のように、先の個人=記述主体にとって、「生存それ自体が健康であることを目指す遺伝子の改変は、生存それ自体の序列化の肯定である」という認識は存在していない。すなわち、この個人にとって、「個別的な属性の序列化」という価値観に基づいた「属性に関わる遺伝子改変」に対する懐疑はあっても、それが「同時に生存そのものの序列化を意味する」という認識はない。従って、記述の分岐を説明する先の仮説は、次のように記述できる。
1. テーマ文に応答する任意の個人=記述主体にとって、テーマ文1は、「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」に対応するものとして肯定的に意識化(記述可能なものとしての対象化)される傾向がある。
2. テーマ文に応答する任意の個人=記述主体にとって、テーマ文2は、生存それ自体が健康であることへの希求や欲望とは異なる「個別的な属性を序列化する欲望に基づく遺伝子の改変」に対応するものとして否定的に意識化される傾向がある。
3. 以上二つの応答する個人=記述主体の主観的な意識化過程の分岐がこの個人=記述主体において存在する場合、それぞれのテーマ文に対する二つの応答記述が、それぞれ
肯定的・否定的という形で一見不整合なものとして分岐する。
上記の仮説によって、主観的な意識化過程を超えた根底的なレベルにおいて――言い換えれば、その都度の文脈生成過程に対するマトリクス的な文脈生成過程として――一貫した文脈の生成過程を想定することができる。
テーマ文2に対する応答記述で注目されるのは、この記述の媒介あるいは制約条件を欠いた、流れるようなスタイルである。「カップルが工作するのでは決してないと思う」といった記述から、一見ここでは、「(不自然な)工作」あるいは技術的介入がないからこそ、こうしたおのずから成る事象の流れがあり得ると述べられているように見える。だが、実はこの記述にとっては、あらゆる技術的介入およびその効果は、あくまでも一つのエピソードとしての「過渡期」に過ぎない。やはりここでも、あらゆる有限な時間性がその都度記述主体にとっての無意識=潜在的なレベルで消去されるような、無時間的な世界イメージが生成している。
この「世界」は、決して直線的な時間の末端としての終わり=目的ではない。それはむしろ、無時間的な無常と恒常の共存において、自分の子ども、妻、夫、夫婦、家庭(という固い絆)、地域、国、世界がおのずから一つに「つながる」世界(あるいは常にすでに一つにつながっている世界)であり、それ故、「カップルが工作するのでは決してない」世界である。それは、この個人=記述主体にとって、本来どこにでもあるはずの、ごく自然な日常的世界なのである。
 上記の文脈生成過程の一貫性が、次のテーマ文3に対する応答記述においてあらわになる。とはいえ、それは記述とも言えない記述であり、ただ「…と思う」のみである。この記述の断片をどのように読めばよいのか。 
この記述において表出されているのは、先の個人=記述主体の主観的な意識化過程にとって、テーマ文1,2,3相互の(同時にそれぞれに対する応答記述相互の)整合性の吟味ができないための思考停止状態である。すなわち、これらの整合性の吟味は、この個人=記述主体によって、無意識に否認されている。言い換えれば、ここには、自分の子ども、妻、夫、夫婦、家庭(という固い絆)、地域、国、世界がおのずから一つに「つながる」世界(常にすでに一つにつながっている世界)の不可能性という<現実>に直面することへの無意識的な否認が存在する。そこに作動しているのは、ある<排除>のメカニズムである。我々にとって本来どこにでもあるはずの、ごく自然な日常的世界は、<我々自身の無意識>を穿つ亀裂がこのメカニズムによって予防的に排除されることで成立するのである。
*事例[3]の言表分析:属性;女性・40代・ケアマネジャー
1:確かに、遺伝子が解決されれば、全て、生きとし生けるものに係わることは、解決されるに違いない。
2:しかし、ほんとうにそうなるだろうか。クローンの動物は早死しているし、所詮人間が創るものだ。人は神になれるかという哲学的な問題に発展していくことになるだろう。
3:さきほどまでは、身近には考えていなかったかもしれない。しかし、現実問題、自分のみに置き替えてみると、遺伝子に傷がついていた、変な子が生まれるかもしれないと思うと、その時になってみなければわからない。否、考えたくないと思っている。
予防的な排除のメカニズム――あるいは根底的な文脈生成過程の連続性への問い
まず、テーマ文1,2の応答記述の分岐を説明する先の一般的仮説を包括する、より根底的な以下の仮説を提起する。
【更新された仮説】:「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変は、肯定的なものとして意識できるが、個別的な属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変については、私は懐疑的である」という応答記述は、根底的な文脈生成過程の連続性の効果であり、その連続性を表現している。
それでは、この根底的な文脈生成過程の連続性とはどういうものなのか。
テーマ文3では、「不要」になった受精卵の選別・廃棄といったケースが提示されていた。この受精卵の選別・廃棄という行為は、遺伝子の改変という行為と同様に、これまで私たちが仮定してきた「生存それ自体が健康であることへの希求あるいは欲望」と「個別的な属性の序列化への欲望」の両者を内包している。言い換えれば、この行為をテーマ化したテーマ文3への応答記述の分析によって、「生存それ自体が健康であることへの希求あるいは欲望に基づく遺伝子の改変」と「個別的な属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変」の両者の文脈生成過程における連続性の分析を行うことができる。
テーマ文3に対する記述から、上記の連続性を次のように考えることができる。これら両者は、どちらも生命の序列化・選別操作という行為であるが、そのことへの認識の生成は、<我々自身の無意識>が作動するメカニズムによって予防的に排除されている。この予防的な排除のメカニズムが、「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変は、肯定的なものとして意識できるが、個別的な属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変については、私は懐疑的である」というテーマ文1,2の応答記述の分岐を生成する。この予防的排除のメカニズムが作動する無意識の領域こそが、個人=記述主体の記述が位置するその都度の文脈の生成過程に関して最も根底的な文脈生成過程――言い換えれば、その都度の文脈生成過程に対するマトリクス的な文脈生成過程なのである。
おわりに――他者の排除と寛容への問い
テーマ文3によってテーマ化された受精卵の選別・廃棄という行為に対する応答に迫られた個人=記述主体は、同時に、無意識における予防的な排除のメカニズムが意識化され揺らいでいく過程に直面することになる。この揺らぎの過程が、同時に「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」と「個別的な属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変」の両者がどちらも生命の序列化・選別操作であるという認識の生成過程の端緒となり得る。
だが、この認識の生成過程は、既述の執拗な予防的排除のメカニズムの抵抗に遭遇し続けることになる。個人=記述主体が、自らの認識あるいは言葉の生成にたじろぐのはここである。そして、まさに先の「さきほどまでは、身近には考えていなかったかもしれない。しかし(……)変な子が生まれるかもしれないと思うと、その時になってみなければわからない。否、考えたくないと思っている」という記述において、先の認識の生成と予防的排除のメカニズムとの無意識における遭遇の意識化という事態が表出されている。
すなわち、本事例で意識化された生命の序列化・選別操作に対する無意識の肯定的ファクターは、第二文の「変な子」という表現として表出されている。<我々自身の無意識>は、この「変な子」をいつもすでに胚胎しているのかもしれない。その展開過程が他者への寛容への深刻な打撃となるであろう、汎社会的領域における「優生主義(Eugenics)」の普遍化という事態――換言すれば、我々自身の生存を隅々まで包括する価値尺度による我々自身の生存の階層序列化という事態――は、その核心にこの「変な子」を胚胎させているはずである。
だが、我々は、代替不可能な生存を生きるそれぞれの個人=記述主体として、この「変な子」をいつもすでに胚胎しつつも、同時にそれを予測不可能な様態において受容する新たな<世界>を創出しつつあるのではないか。その<世界>の生成過程においては、他者の排除と寛容への問いが終わることは無いが、いかなる価値尺度による生存の階層序列化という事態も永続不可能であるだろう。
【注】
(注1)本論文は、拙論「<我々自身の無意識>としての「普遍化された優生主義」の社会哲学的含意――「応答型文章完成法(Responsive Sentence Completion Test)」を活用した分析を通じて」(日米高齢者保健福祉学会 学会誌第二号 東京福祉大学 2007年)を「近代化と寛容」というテーマに沿ってさらに掘り下げた発展型として位置づけられている。
(注2)とりわけ母体血清マーカーの遺伝子検査は、不特定多数を対象とするマス・スクリーニング(選別的集団検診)に適合する。
(注3) 根村直美:WHOの<健康>の定義.現代思想 vol.28-10: 153-169,青土社 2000.
(注4) この論点については、上記(注1)論文の(注3)を参照。


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